ハジマリ |
桜上水に負けた。 「今日はたまたまついてなかっただけだ」 そう言ったのが、ずいぶん前のことのようだ。 ベンチに戻ったらそこから動けなくなった。 負けた。 ――体と同時に、頭も同時に活動を止めてしまったらしい。 うしろからだれかの洟をすする音が聞こえてくる。 ――泣いてんじゃねぇよ、だっせぇな。 思うのと同時に、投げつけるような強さで、頭にタオルが降ってきた。 「余計なマネすんじゃねーよバカ」 タオルの持ち主は「へいへい」などと言いながら、他のやつらのところへ歩いて行く。 視界一杯に映る土の色が歪んで、ちいさくぽつぽつと黒く色を変えていくのを見ながら、 椎名翼は唇を噛みしめた。 公立の学校の校舎というものは、一見どこのものも造りが似ているようだけれど案外違うものだ。 そんなことを確認でもしているかのようにわざと奥まったほうへと向かいながら、佐藤成樹は軽快な足取りで角を曲がって昇降口から外へと出ていく。 走っているというわけではないけれど、地面と足の裏のぶつかる衝撃が怪我した腕に響かない、というほどしずかに歩いているわけでもない。それでも速度はそのままに、チームメイトの待つ控え室から遠ざかる。 『便所』と言って出てきたが、そろそろ逃亡もバレる頃だろうか、と、彼はのんきに考えた。 一刻も早く、と自分を病院へ連れて行こうとするチームメイトたちには申し訳ないが、自分ははっきり言って、医者というのが嫌いなのだ。 とりあえずはコーチの応急手当も受けたし。さんざん冷却スプレーを吹きかけられて、テーピングでがっちり固定までされた。それだけでもすでに医者に行く気力は尽き果ててしまったのだ。 (…別に、今すぐ行かんでもええやろ。) そもそも嫌いな医者に診てもらうだけでも気が滅入る事態だというのに、このままの勢いでは部員全員が診察室まで付いて来かねない。 …その中でも特に。 (ポチは絶対ついてきよる…) 知らず、げんなりとした表情になってしまう。 風祭のことは気に入っているし、大体、彼をからかって遊ぶのはライフワークのようなものだ。しかし、『いつでも大人数で仲良く行動する』ことを、自分はどうしても好めない。 そういう『壁』が、自分にはあることを知っている。 なんでかそんななのだ。どうして、と、あのまっすぐな目で問われても、彼に限らずだけれど、たぶん誰にもうまく説明できない。 とくに風祭は真っ直ぐすぎて、たまに自分とすれ違う。 ――今日のように。 すれちがった意見を何とか落ち着かせることができたのは、風祭の懸命な態度と試合中の妙なハイテンションのお陰だったのだろう。 今日ほどはっきりとかたちに出たことは、今まで無かったけれど。 きゃあ。 唐突な黄色い声に、めずらしく深く考え込みそうになっていたシゲの思考が中断される。 (…なんや?) 自分の進行方向一直線上に、3人ほどの女子がたむろしている。 飛葉中の制服に身を包んだ女子生徒たちが、薄汚れた校舎の壁に身を寄せるようにしながら、その向こう側を覗いているのだ。 『向こう側』は、どうやら中庭になっているらしい。 彼女たちは、中庭の様子を伺ってはきゃあきゃあと声を上げている――が、ほとんど内緒話でもしているかのような声量だった。覗きというものを心得ているらしい。 「ね、行こうよ」 その中の、背の高い一人が言った。 「や、でもぉ…」 髪の長い少女が、もじもじと語を濁す。 「チャンスだって、いつものヤンキー集団、誰もいないじゃん。」 (ヤン…?) 清楚な女子中学生にはおよそ似つかわしくない単語に、咄嗟に木陰に隠れたシゲが吹き出しそうになる。 (ははぁ。) 今日の飛葉中には、先程終わったばかりの試合に関係した者以外の人間はいないらしい。 とすれば、この子達は応援に来ていたのだろう。 よく見れば彼女らの手には、スポーツドリンクのボトルとかわいらしいフェイスタオルが抱えられている。 この時間。この雰囲気。そして『いつものヤンキー集団がいない』。 (姫さんか) 無駄に鋭い勘を惜しみなく働かせ、シゲはニヤリと笑みをつくった。 活発そうな友達に背をたたかれ、"髪の長い子"は少しやる気を出したらしい。 「う…うん、行ってみる」 「がんばれ」 「行ってみればなんてことないって」 (うーわ、無責任やのぉ〜) すっかり覗きの覗きを満喫しはじめていた彼だったが。 「残念でしたねって、次はがんばってくださいねって言えばいいんだから」 行動は、驚くほど早かったと――自分でも感心した。 試合後の疲れを感じさせない俊足で3人組の横をすり抜け、中庭に入る瞬間、スピードをセーブする。 3人組が、通り過ぎる瞬間にぽかんと口をあけたのが、不思議とはっきり見えた。 悪いことをしたかな、と少し思う。結果的に、この行動は彼女たちの数少ないのであろうチャンスをつぶしてしまうことになる。だけど自分は動いてしまった。 彼は、いっぱいにひねった水道の蛇口の下に、明るい色の頭を突っ込んでいた。 夕暮れの朱色に染まった中庭に、盛大に飛び散る白い飛沫。 すでに髪の毛はおろか、ユニフォームのままの背中もぐっしょりと水を含んでしまっている。このままでは、どんな馬鹿でもおそらく風邪をひくだろう。 固定されて動かない右手の代わりに左手を伸ばして、全開になっていた蛇口を根気よく回し、水を止める。 彼は気づいているのであろうけれど、制止してくる様子もない。チームメイトが迎えに来たと思っているのかもしれない。そのまま最後の一滴まで律儀に髪に含ませると、屈んだ体勢は変えないで、首だけこちらに向けてきた。 「よう、姫さん」 目に留まるのは、自分よりずいぶん小さいのであろう、ずぶぬれの背中。 「……金髪、」 ぱちぱち、と、音が聞こえてきそうなほどはっきりと瞬きをしてから、飛葉中サッカー部キャプテンは蛇口の下から器用な仕草で頭を抜き、自分とまっすぐ向き合ってきた。 そのきりっとした姿勢が、とてもきれいだと思った。 今こんなことを思うのも、場所違いかもしれないけれど。 「何の用。」 すこし高い声が、端的に訊いてくる。 「べつに。」 用は無い。これは本当のことだ。 大きな目がすぅ、と眇められる。 あの3人組はきっとまだこちらの様子を伺っているのだろう。もしかしたら、さっきよりもおもしろがって見ているのではないだろうか。 「風邪ひくんちゃうかと思て」 「それはどうも。」 言うなり、下に置いてあったタオルを引っつかんできびすを返す。 「あ、ちょぉ待ち、」 「何」 振り向きもしない。 「…あ〜…」 彼に何を言おうとしていたかを不意に理解して、僅かに混乱した頭が言葉を濁らせた。自分は彼に、教えておいてやろうかと思っていたのだ。うしろに隠れている女生徒のことを。おそろしいことに、自分はおせっかいを焼こうとしていたのだ。 「だから何」 短気やなぁ、と言おうとしたのだが、翼が振り向いて口を開くほうが早かった。 「だいたいお前なんだってこんなとこにいるんだよ?控え室からここまでどれだけ離れてると思ってんだ?迷ったなんてバカみたいなことは言わないよな?」 「や、その」 「僕らはこれから今日の反省会。あんたらのとこだってミーティングのひとつやふたつあるだろう?さっさと帰れよ。それともおまえら、チーム全員仲良く迷子なのか?」 おかえりはあっち、とばかりに背後を指差さしてくる。形のよい、細い眉のあいだにくっきりとできた溝を見たら、なんとなく気が抜けてしまった。 相手は、これ以上自分と顔を付き合わせている気はないらしい。 ――まぁ、ええか? 実際、何だって自分がここにいるのか、自分でもよく解っていないのだ。最初は確か、一人になりたかっただけのはずなのだが。だいたい教えようが教えまいが、この人物が一介の女子生徒に振り回されることなどないだろう。きっと上手くあしらう。 そうだ、さっきはどうしてか、彼女たちが椎名を傷つけるのではないかと思ったのだ。本当に不思議なことだけれど。 普通に考えれば、傷つく羽目になるのは彼女らだろう。彼女たちがどんなに言葉を尽くしてねぎらっても、マシンガンとはいわないまでも――今しがたの連続射撃でもって十中八九、やり込められてしまうだろう。 なんだか自分には関係ないことで、妙に気をもんでしまった気がする。そもそも彼が傷ついたって自分には関係のない事なのだし。 (大体こりゃどう見たって『ぶつかっても怪我するのはこっちだけ』の、重戦車やろ?) そう思ったら、何故だかふわ、っと力が抜けた。 (なんや、なんでこんなに力はいっとったんやろ) 「なんなんだよ」 目の前の人物は、先程よりもしっかり目線を合わせてくる。 あぁ、綺麗な目だな、と思う。 姿勢もそうだけれど、彼は常にまっすぐ前を見る。 強いものは見ていて気持ちいい。 「お疲れ」 何だかおかしくなって、笑いながらそう言って。 「変な奴」 なんともいえない表情を浮かべて、翼も少しだけ笑った。 自分が彼を笑わせたことに少しだけ満足して、シゲは踵を返した。 |